最上家によって滅ぼされた白鳥氏の領地はいったいどれくらいだったのだろうか。
白鳥氏は現在の村山市の戸沢地区白鳥にある白鳥城を居城にしていた。
この白鳥城のほか、白鳥氏は鳥谷森・毛倉森・柏木森という城。また白鳥の東側、最上川近くに碁点城などの出城をもっていた(白鳥十郎長久 おもかげを訪ねて 高橋欣二)。
このことからみて、現在の村山市の最上川をはさんで西側は白鳥の領地ではなかったのだろうか。
白鳥城の北側はどのあたりまでが領地だったのだろうか。
齋藤家に残る白鳥側からかいた記録、「天正最上軍記」には、白鳥氏の祖はかつて村山市の富並にある「鬼甲(おにかぶと)城」にいた、という記述がある。
鬼甲城は白鳥の北、富並地区にある城で、平安後期の頃に作られたらしい。北村山郡史の鬼甲城戦記によると城主は落浜入道大林で、南北朝時代には白鳥氏が城主となり再築城したらしい。
(羽州葉山山麓 にしかた物語 熊谷宣昭 1998)
現在の大石田町は最上川をはさんで川の南側には横山地区、北側が大石田地区である。
かつて横山地区は下谷地郷に属する地区で、江戸時代は谷地北部と同様に新庄戸沢藩領であった。
戦国時代、横山地区が誰の領地であったのか、はっきりした資料が見つけられなかったが、「下谷地郷」として谷地郷に含まれていたことから考えて、ここまでが白鳥の領地ではなかっただろうか。
参考
横山の川向かいの大石田は、
延沢城主の野邊沢氏の領地だったそうだ。
尾花沢市史
南と西は
白鳥氏は十郎の時に、居城を白鳥城から谷地城に移した。
河北町の南、溝延にあった溝延城は大江氏の城である。また、伯耆守が居を構えた西里の西や南の地区では、白鳥の伝説を聞かない。
このことから、十郎公がいる谷地・伯耆守いる西里が白鳥の勢力範囲の南限・西限ではないだろうか。
余談だが、
かつて谷地は中条氏が6代150年以上にわたって治めていた地である。
(白鳥十郎公ものがたり 槙 清哉)
谷地城入部に際しては、
中条氏とのいさかいがあったという記録や言い伝えはなく、
戦国の世にあってなぜ争いが起きなかったのか、
大きな謎の一つである。
旧来の領地、白鳥と谷地の間には湯野沢などがあるが、白鳥氏とは友好的な関係にあったようだ。
『天正最上軍記」に記載されている白鳥の重臣の中に「熊野三郎」という名がある。
熊野三郎は湯野沢楯主で、十郎公が山形に出向いたときに同行し、戦死したと伝えられている。
(村山市史 原始・古代・中世編)
また、熊野三郎の娘おたえ君を娶ることで、熊野三郎を十郎公は家臣にしという伝承もある。
(羽州葉山山麓 にしかた物語 熊谷宣昭 1998)
これらのことから考えて、白鳥と谷地の間は、白鳥氏領と考えるのが妥当であろう。
以上のことから、白鳥の領地は谷地・白鳥を中心に、北は横山、南は谷地、西は西里、東は最上川の西だったのではないだろうか。
「昭和56年度 山形歴史の道調査報告書 村山西部街道ー河西・横山通ー 山形県教育委員会」によると、横山・田沢・山内・大久保・上野・大槇・白鳥・駒井を下谷地郷。湯之沢・岩木・北口・吉田・工藤小路を上谷地郷とよんでいた。
石高は両郷を会わせて、二万千八百四十二石八斗七升九合二勺とされていた。
また、同書から西里は北寒河江荘に属しており、三千六百四十余石だったそうだ。
合わせるとおおよそ二万五千四百八十余石。
『山形県史 第1巻』によると、「『最上義光分限帳』では谷地三万二千六百石は蔵入地となっていた。」という記載があった。
25480石〜32600石。
少々開きがあるが、これくらいが白鳥氏の石高だったのではないだろうか。
参考ながら
最上氏は関ヶ原(慶長5年・1600年)の後、24万石から57万石に加増。全国でも屈指の大大名になりました。この加増は、義光がいかに家康の信用を得ていたか、ということの表れでしょうか。
しかし、義光の死後、お家騒動から元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易を命じられました。ただし新たに近江大森で1万石の所領を与えられ、最上家の存続だけは許されました。
大森に移った最上家は当主最上義俊の死後、跡を継いだ義智が幼少のために5,000石に減知され、以降子孫は交代寄合(旗本の家格の一つ。大名と同等若しくはそれに準ずる待遇)として最上家は続きました。
石高=領地でとれる米の量
1石=150kg(100升・10斗・2俵半)
年貢は籾で納めたらしいです。