伯耆守が居を構えたところの西側に標高150mほどの小高い山がある。
屋敷跡から山頂までは、おおよそ30m位の標高差だろうか。
この山の山頂付近は平になっていて、その平地の片側が小高く盛り上がっている。
山の名前は「的場山」。
かつて、弓矢の稽古場だったそうだ。
現在、根際地区内を通る道は山の麓付近にあるが、かつて根岸(際)街道とよばれた道は現在よりも標高の高いところ、今の感覚で言うと山の中を通っていたそうだ。
街道は伯耆守の屋敷付近を通り、的場山を登る形で東西を結んでいたようである。
東に進むと谷地に、西に向かうと慈恩寺をぬけて月山へとつながっていたのではなかっただろうか。
谷地城と月山街道を結ぶ道〜根岸(際)街道〜
月山の先には庄内-越後、そして京都へと道とともに白鳥氏の夢もつながっていたのではないだろうか。
谷地城主、白鳥十郎長久は齋藤伯耆守を根際守将としてここに住まわせ、300人の士卒を配置。山の上に的場を築き、弓の他、長槍や鉄砲の稽古をさせた、とされている。
また、的場の付近には馬場を作り、馬の稽古場としたらしい。
的場山の東側は緩やかな傾斜で、比較的大きな水田が耕作されている。
その広さから見て、馬の鍛錬も可能だったと思われる。
かつて、ここで馬の訓練をしたのではないだろうか。
現在は、的場山を取り巻くように、林道が通っている。
的場山の北側の上り坂を「赤坂(あかさか)」という、と、私の祖父から聞いた。
的場山の土を見ると確かに赤い。
山をはさんで伯耆守の屋敷跡の反対側、つまり山の西側は谷になっている。的場山の西側は急な斜面である。
谷には小さな川が流れていて、現在は休耕田になっている。
谷の川は二筋あって的場山の西で合流している。
ここから的場山を登るとすれば容易ではない。
現在休耕田になっていることから想像すると、かつては湿地だったのではないだろうか。
伯耆守屋敷を西から攻めようにも湿地と的場山の急勾配で阻まれてしまう。
湿地に足を取られてところで山の上から弓矢が飛んでくる。
的場山のまわりを巡りながら、白鳥十郎長久は、敵が攻めて来るときを想定して齋藤伯耆守をここに住まわせ、守らせたのではないだろうか。
かつての的場跡には20代長右衛門(伯耆守の跡取りは代々、長右衛門を名のった。そのいわれは不明)が建てた石碑が建っている。
しかし、現在、的場山は手入れがなされておらず、荒れてしまった。
的場山の周りを見ながら山の山腹をよく見ると、かつての道だったと思われる跡が何カ所かある。
時間を作り、せめて石碑までの道は藪をはらいたい思っている。
伯耆守の屋敷跡は山腹にありその南側から、溝延城跡や天童城跡がよく見える。
溝延も天童も白鳥の一族ではない。
いつか谷地に攻めてくるかもしれない。
日々、ここから伯耆守は他者の動きを見張っていたのかも知れない。
しかし、緊迫した時代の中、ここ的場山から、兄である十郎とその弟、伯耆守は白鳥氏が羽州の覇者となることを語り合ったのではなかろうか。
二人も見たと思われる眺めを見ながら、その光景を想像してしまった。
参考
『西里の歴史ものがたり』 河北町西里地区公民館 1987年