西里齋藤家の祖は「齋藤伯耆」。
白鳥十郎の弟と伝えられています。
私の先祖が十郎の弟だ、ということは今は亡き「20代長右衛門」の妻、「根際祖母ちゃん」から聞いたのが初めてでした。
しかし、十郎の弟だったら、なぜ名字が「齋藤」で、「白鳥」でないのか、私には疑問でした。
実は今でもこの疑問は解けておりません。
「齋藤伯耆守」の位牌は,白鳥氏の菩提寺「東林寺」の本堂奥に「白鳥氏」の位牌とともに祀られています。
ここには齋藤伯耆守大学の位牌のほか、三男とされる「齋藤市郎右衛門」の位牌も祀られています。「白鳥氏」のものとされる位牌は十郎のものとその父とされるものが同じ所にあります。
伯耆守の位牌だけが白鳥氏の位牌と共にあるのだとすれば、「たまたま白鳥氏の位牌と伯耆守の位牌を同じ所においてしまった」のかもしれませんが、齋藤氏をなのる人の位牌が二つも白鳥氏の位牌と共にあるのは、偶然とは考えられません。
中央の右にある金色の位牌が白鳥十郎長久公の位牌。
中央の金色の位牌は文化元年(1804年)に墓碑が建てられたときのものと思われる。
右の金色の位牌の奥にあるのが齋藤伯耆の位牌と
齋藤市郎右衛門の位牌。
二引き両の紋が入っているのが白鳥十郎長久公の位牌。
三人の位牌が重なって見えて、わかりにくいが、その奥に齋藤伯耆守の位牌と齋藤市郎右衛門の位牌が安置されている。
左の位牌は文化元年のものと思われる白鳥十郎公の位牌。
白鳥氏の家系図は白鳥氏の家臣の茂木家に残っています。
『河北町の歴史』などにその家系図が複写されています。
その家系図によると,白鳥氏は平城天皇を祖とし、そこから最上義光に殺された白鳥十郎長久までが記載されていますが、伯耆守や市郎右衛門の名前が見つかりません。
十郎の直系の子孫だと自称した人に、小谷部全一郎氏がおります。小谷部氏が宮内庁に提出した「出羽白鳥家ニ関スル申請書」には「白鳥十郎長久が山形城において誘殺されるや、長久の弟齋藤伯耆は殉死」と記載されているそうです。
(『白鳥十郎公 おもかげを訪ねて ビデオ資料集』P62 髙橋欣二 平成7年)
また『河北町の歴史 上巻』のP163には「長久の弟ともいい、また家来とも伝えられる家柄に齋藤家がある」と記載されています。
確たる証拠は見つからないのですが、私はやはり伝承の通り齋藤は白鳥の血族だ、と考えています。
十郎が礎を気づいた河北町谷地。また白鳥氏が勢力を蓄えた村山市白鳥地区には、昔からこの地で生活する人の中には「白鳥」を名のる人はいません(2011年版 山形県村山地域版ハローページ・同寒河江地域ハローページより)。
白鳥氏は十郎の代に谷地に移ったのですから、谷地に白鳥姓がないのも納得できますが、白鳥地区に一軒もないものまた不思議です。
直系はないとしても、その親族があってもよさそうなものです。
私はこう考えています。
「白鳥氏は齋藤氏と同じ血筋で、齋藤氏の総宗家をつくものだけが居住地の『白鳥』姓を名のった」
この仮説が真実だとすれば、齋藤伯耆守と齋藤市郎右衛門の位牌が白鳥氏のところに安置されている理由も理解できます。
実は茂木家に伝わる白鳥の家系図は十郎が殺害されたあとに作られたものです。
茂木家に伝わる家系図は十郎のが殺された天正12年(1584年)から18年後の慶長7年(1602年)に作られたものです。
この頃、最上氏は改易される前で、谷地は最上氏の直轄地となっていました。
(寒河江市史 上巻 「谷地白鳥氏の誘殺」より)
合戦となり討ち死にしたのならまだしも、手の込んだ方法で十郎を誘殺した最上。
残された十郎の家臣は最上義光に対して恨みとともに恐怖も感じていたのではないでしょうか。
仮に十郎の弟とされる伯耆守や市郎右衛門が存命だとしても、さらなる誅殺を恐れ、家系図には記載しなかった、とは考えられないでしょうか。
前述の『河北町の歴史 上巻』には、
齋藤伯耆法号 英空居士 天正12年6月7日殉死
仝苗市郎右衛門 英般居士 仝日殉死
と、鶴根齋藤家の過去帳と根際齋藤家の過去帳に記載されている、と述べています。
しかし、白鳥家菩提寺の東林寺過去帳には英般を文禄二癸巳年(1593年)5月7日寂、英空を元和四年戌(1618年)7月17日寂と記している、とも述べてあり、この事情は不明、とも記しています。
注:河北町の歴史 に記載されている二人の法名が逆ではないかと思います。
根際齋藤家の位牌には、
初代 齋藤伯耆
東源院耆鳳榮繁居士
文禄二癸巳年5月7日
と記されています。
天正12年6月7日は十郎長久公が山形城にて殺された、まさしくその日です。
齋藤伯耆と齋藤市郎右衛門がともに白鳥十郎の弟だとすれば、万が一、十郎の身に何か起これば、白鳥家を継がなければならない身、ではないでしょうか。
その二人が十郎とともに山形に出向いて討ち死にするとは思えない。
つまりは二人が十郎と同じ日に亡くなったとしなければならなかった、何らかの事情があったものと思えます。
これはあくまでも想像ですが、弟二人も亡くなったとすることで白鳥の家系が途絶えた、と最上に思わせなければならなかったのではないでしょうか。
またその理由は、白鳥の血筋を絶やさないため、とも、すでに最上に反逆する意志はないことを示すためとも考えられます。
今となっては、想像して推測することしかできませんが。
東林寺の位牌壇に安置してある根際齋藤家の位牌。
手前の位牌は「20代長右衛門」 根際祖父ちゃんの位牌。
参考文献
「白鳥十郎公物語」槙 清哉 平成7年 河北町白鳥会
「河北町の歴史 上巻」 河北町
「寒河江市史 上巻」 寒河江市
「白鳥十郎公 おもかげを訪ねて ビデオ資料集」 髙橋欣二 平成7年
「2011年版 山形県村山地域版ハローページ」 NTT東日本
「2011年版 山形県寒河江地域ハローページ」 NTT東日本