谷地の井戸水はカナケがまじっていて赤く、とてもそのままで飲みたいとは思えない。
冬に消雪用に井戸水を散水しているところはどこも赤さび色である。
むかし、むかし旅の僧が谷地を訪れたときの話である。暑い日盛りのなかを誦経しながら歩いていたので、すっかりのどが渇いてしまい、一軒の家で水を乞いました。
機織りの最中に声をかけられた妻女は、目を怒らせとげとげしい声で
「この忙しいのになんだ、表の川の水を呑め」
とどなりました。旅の僧は驚いてしまいました。
しばらくすると旅の僧は、「あねさ、表さ赤い紐落ってだよ」と声をかけました。妻女は急いでひろい襷に掛け元通り機を織り続けました。
やがて、訪ねて来た近所の人はあっと驚きました。
赤い紐は失くなり蛇が代わってまきついていたからです。おまけに玄関口の井戸も止まっておりました。これから後は谷地に井戸水は出なくなったという。旅の僧は弘法大師であったとさ。
〜西村山大堰土地改良区史 P11〜
谷地は井戸水に恵まれなかったので、逆に公共上水道が発達したという面もある。
西里の根際にある、伯耆守屋敷跡の裏手に井戸がある。
いつ頃掘られたのか、伝承は残っていないが、この井戸は「弘法の井」といわれている。
「先祖がここに居を構えたとき、この地区には井戸がなかった。
唯一あったのがうちの井戸で、近所の人がこの井戸水を使って生活していた。
先祖はこの井戸を大切にし、近くに稲荷様を祀ってこの井戸水が絶えないように祈願した。」
水は、今も昔も生活に欠かせないもの。
ましてや水道のなかった時代、井戸水は私たちの感覚以上に大切なものだったのだろう。
稲荷については「普流稲荷」にて
同じ地区に、戦中の防空壕が現存している。
夏も涼しいので、野菜などの貯蔵に今でも利用しているそうだ。
私も中を見学させてもらったことがあったが、確かに涼しい。
それ以上に驚いたのが、防空壕の壁は「土」ではなく「花崗岩」だったことである。
これは推測だが、弘法の井も地下は土ではなく、固い岩盤なのではないだろうか。
とすれば、この井戸を掘ること自体、かなりの難工事だったのではないかと思える。
全国にある弘法の井のように、もしかしたら弘法大師が錫杖を突き刺して岩盤を砕いてくださったのかも知れない。
根際には小規模ながら夏でも水が耐えることがない川が幾筋かある。
川があるのに、なぜ井戸を掘ったのか。
伯耆守が武将であるが故に、
などなど、ついつい想像してしまう。
弘法の井は今でも水をたたえているが、今は生活用水には使われていない。
一口、水を飲んでみた。
先祖も飲んだ水、と思うと、一口の水に歴史を感じてしまった。
近所の方の話だと、いま(現在)は口にしないほうが無難では、ということであった。
私は腹をこわしたりはしなかった。
参考文献
西村山大堰土地改良区史