その年の収穫を感謝する「刈り上げの餅」。
いわば収穫感謝祭だが、「刈り上げ餅」という呼び方は私の地方のものだけなのでしょうか。
刈り上げの餅は、昔からどんなに貧しい人でもつく、といわれ、逆にその日に餅をつかないと、ひどく軽蔑されたらしいです。
この大切な行事、刈り上げの餅。
わざと日を遅らせて行う地区があります。
なぜ日を遅らせるのか。
そうなった原因に、谷地城の落城が関係している伝承が、その地区に伝わっています。
谷地城が落城した原因は、幾度と触れた城主白鳥十郎長久公が山形城主最上義光に討たれたことに始まります。
自分は病気であり、命も危うい。最上の行く末を十郎公に託したい、という義光からの連絡を受け、山形城に出向いた十郎公。
義光の枕元で義光から受け取った最上家の家系図の巻物を開いた瞬間、義光の枕元に隠してあった刀で切り殺された。その時の十郎公の血が、桜の木に飛び散った。
いわゆる「血染めの桜」事件です。
天正12年6月7日のことでした。
「十郎討たれる」の知らせは谷地にも伝わり、白鳥と同盟を結んでいた寒河江の大江氏と共に追撃に出た最上と決戦になりましたが、主を失った谷地城はあえなく落城したそうです。
谷地城には十郎公の奥方がおりましたが、家臣に守られ、谷地城を出、現在の北谷地地区、岩木の四ツ塚付近で、捕縛しようとした最上勢と対面。
家臣は奥方を岩木の熊野神社の近くの阿弥陀堂に逃したあと、最上勢と交戦、自ら盾となって奥方を守り、あえなく命を落としたそうです。
四ツ塚から阿弥陀堂に逃れた奥方は、家臣の死を悼み、丁重に埋葬するように命じたそうです。
家臣が最上勢と交戦した溜池の近くには家臣をともらう四つの塚が築かれ、このことからこの付近を四ツ塚と呼ぶようになったそうです。
四ツ塚で家臣が討たれたその日、ちょうど刈り上げの餅の日でした。付近の農家でも餅をつき、その年の収穫を感謝するはずでした。
岩木のとなりの岩枝地区ではすでにもちをつき終わっていたそうですが、岩木ではこれから餅をつこう、という時、思いもよらぬ事件が発生し、餅は翌日につくこととなってしまったそうです。
事件発生の時間まで推測できそうな伝承です。
現在でも四ツ塚付近では、他の地区とは異なり、他の地区が刈り上げの餅を行う次の日に、餅で収穫を感謝するそうです。
四ツ塚の溜池のすぐ西側は墓地になっていて、何基かの立派なお墓があります。
刻まれた苗字と紋が同じなので、同じ一族の方々の墓と思われます。
この方々が、十郎公の奥方を守ってくださったのでしょうか。
十郎公の奥方はどのような方だったのでしょうか。
・「最上義光の娘」説
・「最上義光の姉」説
・湯野沢に楯を構えていた重臣、「熊野三郎の娘」説
など、様々な説が残っていますが、どの説が正しいか決定できるような資料は残っていないようです。
四ツ塚は谷地の北、湯野沢に抜ける途中でもあり、また、四ツ塚を通って根際を経て慈恩寺・月山または寒河江と逃れる道でもあります。
しかし、残念ながら四ツ塚には奥方の実家がどこであったかはわかっていません。
岩木地区の伝承には奥方は湯野沢に逃れた、という伝承も伝わっています。また、姫君である「布姫」と一緒だったという伝承もあります。
十郎公が討たれたのが6月初め。
刈り上げの餅は晩秋の行事。
この時間の開きはなぜなのでしょうか。
このことに触れた資料や文献も残念ながら見つけることができませんでした。
奥方は身分を隠し、谷地近辺に潜んでいたのが見つかり、逃れようとしておきた事件だった?
とすれば、なぜ谷地近辺に潜んでいたのか?
謎は深まるばかりです。
四ツ塚で命を落とした家臣の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
参考
「山形県歴史の道調査報告書 村山西部街道ー河西・横山通ー 昭和56年度」
山形県教育委員会
「河北町の歴史 上巻」 山形県西村山郡河北町
「羽州葉山山麓 にしかた物語」 熊谷宣昭 1998
熊谷宣昭,「河北町岩木阿弥陀堂について」,西村山の歴史と文化4,西村山地域し研究会,平成14年